三者共謀説

大浦章郎の説(小説家、歴史研究家、著書には「龍馬暗殺の真相」ほか)

 本能寺の変は永年、明智光秀による仕業であり、その動機は織田信長に 対する怨恨説、それに天下取りの野望が加わったものとされてきた。しかし、そうだとすると光秀の事件後の処理に 納得のいかない部分があるし、羽柴秀吉の高松城攻めの奇跡のような中国大返しや、堺にいた徳川家康の不可解な 行動などの疑問にぶち当たる。

 秀吉や家康にも充分に動機はあるし、その配下に指示して行動した事も充分に考えられる。はっきりしているのは、 当日京都の本能寺に姿を現したのは、まぎれもなく光秀軍であり、光秀本人である事は疑う余地がない。後に 歴史記述が歪曲されたとしても、これだけは間違いない。そこで、こうは考えられないでしょうか。秀吉なら 蜂須賀小六の野武士軍団、家康なら服部半蔵率いる忍者集団を使って本能寺を襲わせる。

 この場合、桔梗の旗をかざして光秀軍に見せかけるゲリラ作戦など彼らには朝飯前の仕事だ。更に口コミで ”光秀殿ご謀反”などの噂をまき散らして、そこへ本物の光秀軍が入京してきた。いや、誘い出された。そこで、 本能寺に火を放って逃げた。逃げる時に”明智様の仕業”との噂を京中に放った。最早のっぴきならぬ事態を 察した光秀は覚悟を決めた。

 それでは、この三人を共謀させたフィクサー(親玉)は誰でしょう。云わずと知れた安国寺恵瓊である。 安国寺恵瓊は三人に”信長に対する不安、恐怖感”を説いた。永年の織田家重臣の佐久間信盛親子や林通勝の追放や 死を例に、信長が何をするか判らぬ不安と恐怖感を煽った。これは三人に共通する強力な言葉だった。しかし、 秀吉は高松城攻めの時に仲裁役に安国寺恵瓊が立ち会った。この安国寺恵瓊は毛利家の外交僧だが、京に滞在する 事が多かったし、家康の家臣の本多正信は三河一向一揆の時、徳川家を離脱して京周辺にいた事は事実である。

 ですから、光秀、秀吉、家康の三人は動かなくても、光秀の家臣斉藤利三、秀吉の家臣黒田官兵衛、家康の家臣本多正信の三人が 京都で主君の名で三者協定を結んだのではないでしょうか。しかし、秀吉の裏切りによって協定は終了したから、 山崎の戦いが始まった。家康は光秀救出の為、鳴海まで進出したが、秀吉の裏切りに気が付くのが遅く、山崎合戦は秀吉の 勝利に終わっていた。安土城の炎上は秀吉が証拠隠滅の為に指示した。後に家康が小牧・長久手の戦いは秀吉への抵抗、 協定違反までして大坂城内堀まで埋め、秀頼を死に追いやったのも秀吉の協定破りへの怒りであった。

 ついでに、斉藤利三は、元々は稲葉一鉄の家臣であったが、一鉄の所を逐電して明智光秀に身を寄せた。 稲葉一鉄に泣きつかれた信長は、利三を返すよう光秀に命じたが、光秀はそれを拒否して、信長の不興を買う ようになった。

本能寺の変

信長館

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