桂昌院(徳川綱吉の生母)

 彼女の玉の輿は東洋のシンデレラではないかと思うのですが、桂昌院は京都の八百屋の 娘として生まれ徳川家光の側妾となります。ここまではシンデレラも同じなのですが彼女のすごいところは さらに5代将軍徳川綱吉の生母となってしまうところです。

 京都の八百屋の娘としてつけられた名前はお玉。彼女は小さい頃仁和寺で亮賢(りょうけん)という僧に 人相見をしてもらったところ、将軍家の御生母様になる相があるといわれたということです。16歳のとき、 江戸大奥の於万の方が部屋子を一人ほしいと言っているのを彼女の母親が前に奉公していた先の二条家で きき、江戸にいくことになりました。

 当時、将軍の夜伽のお褥遠慮は30歳ときまっていたため、於万は家光の夜伽を28歳で辞すること になりました。たいていこのような時は、自分の代わりとして自分の手元で使っていた女中の気に入ったの を将軍に差し出すことになっていました。

 お玉は家光も気に入ったので、秋野と名を変えて将軍付きの中臈(ちゅうろう)となったのです。 まもなく彼女は懐妊し、徳松と呼ばれる男子を出産しました。この時点では上にお楽の方がうんだ5歳年上 の竹千代がいました。 徳松が6歳になったとき、3代将軍家光が病死しました。お玉は桂昌院と名を改め ました。

 将軍の側女であってもその将軍が亡くなれば出家して大奥をでて日陰の身となるべきところを彼女は徳松 を生んでいたため待遇もよかったのです。徳松は賢い子で、儒教への傾倒も深く、論語を読む事をたいへん 好みました。

 また、学問に励む自分を見る母親の満足そうな顔を見るのもすきでした。彼はたいへんな親孝行息子だっ たのです。彼の異母兄が家綱をなのり4代将軍になり、16歳になった徳松は名を綱吉と改め、館林30万 石の城主となりました。

 母、桂昌院は予言僧亮賢への信望をますます深め、彼を碓氷八幡宮別当大聖護国寺の住職としました。 家綱はその後病死し、その中臈たちも懐胎の兆しがないので、綱吉を5代将軍にする事になりました。

 これに反対して京都の宮家から将軍を迎えようとした大老酒井歌樂頭忠清を彼女は怨んで綱吉に彼を退け て、堀田正俊を取りたてるよう進言しました。また、亮賢を江戸に呼び寄せて護国寺を建ててやり何事も 彼に相談しました。綱吉の御台所は関白鷹司信子でした。

 結局彼女は79歳で死ぬまで息子にも大切にされ、そのお陰で有力な家臣たちからも一目おかれて、 八百屋の娘が江戸大奥で権力をほしいままにしたのです。

歴史舘3

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