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印章 |
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花 押 北条 早雲 |
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名もなき諸国流浪の一介の浪人が、ある日突然小城主になって、一夜にして伊豆
一国を手中に戦国大名に変身した。戦国の群雄割拠の時代の幕開けにふさわしい人物と言える。この早雲の
生い立ちについては、色々な諸説がある。伊勢出身の素浪人、京都を追われた名門伊勢氏、備中の
豪族伊勢氏などあるが、妹の北川殿が駿河の守護大名の今川義忠の正室だった事から一介の素浪人とも
思えないが、妹を頼って駿河に下った時点で無位無冠の浪人には違いない。
文明元年(1469年)北条早雲38才の頃である。この時には名字は北条でなく、伊勢新九郎氏長と
名乗っており、北条姓を名乗るのは彼の子供(氏綱)の代になってからです。文明8年(1476年)、
今川義忠が戦死すると、家督を巡って家臣団に内紛が発生した。
この時、関東から鎮圧に来た太田道灌(おおたどうかん)らと共に内紛を調停、北川殿の子供(氏親)
を家督にすることに成功した。この業績により甥の氏親の後見人になり、一方では伊豆・相模国境で
興国寺城(現在の沼津市)の城主となった。この時点で早雲は着々と地力を養っていった。
当時関東では足利将軍家の一族の古河・堀越えの両公方と関東管領であった山内・扇谷(おおぎがやつ)
の両上杉家の4勢力が入り乱れて戦いを繰り広げていた。延徳3年(1491年)、伊豆では堀越公方
足利政知(まさとも)が死去すると、異母弟、家老らを殺害して強引に跡目を継いだ嫡子の茶々丸と
家臣達の対立が発生した為、伊豆は騒然となった。
かねてより伊豆を狙っていた早雲は、この時期を見逃さなかった。伊豆の国人達が関東に出陣している
隙に、伊豆に攻めていった。茶々丸の本拠の韮山を急襲して、一夜にして滅ぼした。勿論、この陰には
対立勢力の扇谷上杉の手引きもあったという。こうして一夜にして、歴史の表舞台に躍り出た。この時、
早雲は60才を迎えていた。早雲が最初に手を付けたのは伊豆の国人達の処遇である。
従う者には所領を安堵、敵対する者には屋敷に火を放つと宣言した為、関東に出陣していた国人達は
伊豆に立ち返り早雲に従う事を約束した。戦いを避けていた農民達も安心して村に戻って来た。さらに
年貢を5公5民から4公6民へと軽滅した為、農民達は大いに喜んだ。早雲は単なる国盗りの梟雄では
なく、領国経営でも手腕を発揮していた。
次なる獲物は箱根を越えた関東へと向けられた。このチャンスは向こうから飛び込んで来た。明応3年
(1494年)、扇谷上杉定正、扇谷の武将小田原城主の大森氏頼、相模の名門の三浦時高などの
有力大名達が相次いで死亡した。この関係で相模に軍事的空白が出来た。小田原城主は氏頼の子の
大森藤頼が跡を継いだが、器量がなく、早雲は藤頼と親交を結ぶと、度々小田原を訪ねては動静を
探っていた。
そして明応4年2月11日、鹿狩りを口実に、勢子に扮した手兵を小田原領内深く送り込むと、隙を
狙って一気に夜討ちをかける。不意をつかれた小田原城は簡単に落ちた。この時にも国人、農民に対しては
寛大な処置をして、戦いを急ぐ事なく領国経営に力を注いでいる。対立に明け暮れていた山内・扇谷の
両上杉家が、早雲の野望に気が付いたのは永正2年(1505年)になってからの事である。
小田原乗っ取りから10年も経過してからの事である。両上杉家は和睦、結束して、早雲に当たる事に
なったが、時すでに遅く、戦に明け暮れて消耗している時に、早雲は戦力を充実させていた。永正9年
(1512年)早雲は新井城に籠もる三浦義同(みうらよしあつ)に対して攻撃を開始した。手こずった
が永正13年11月、三浦氏は滅亡した。
この時、早雲は85才を迎えていた。永正15年(1518年)早雲は家督を嫡子の氏綱に譲って
隠居した。翌永正16年8月15日、伊豆韮山城で天寿を全うして、88年にわたる生涯を閉じた。
法名は早雲寺殿天岳宗瑞。墓は北条5代の当主と共に箱根湯本の早雲寺にある。
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