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松平家の誕生
松平家はどのような場所で誕生したのでしょうか

松平神社(ここが松平氏が誕生した地) |

産湯の井戸(この水を使用した家康と信光) |

高月院(この寺の裏に親氏の墓がある) |

高月院の入口の門(3代将軍家光の建立) |
松平親氏は天ケ峰の山上において、天下泰平の祈願を行ない
無量寿経の経文の一部を自らの願文とした。
天下和願 曰月清明
風雨以時 災歯s起
国豊民安 兵戈無用
栄徳興仁 務修禮讓
三河国加茂郡松平郷(豊田市)が、松平家の発祥の地と言われている。
愛知県岡崎市から矢作川に沿って北上し、渡会町(豊田市)で矢作川と分かれている巴川の南岸を足助街道沿いに北東に
進むと九久平町につく。
この九久平の先でさらに巴川と別れ、滝川に沿って国道301号線を東に進むと、下河内の部落がある。ここは
天保7年(1836)の加茂一揆があった場所です。一揆の指導者の松平辰蔵の生家と伝えられる農家を左手に
見ながら、山道に入っていくと、山が近づいて、谷が狭くなる。
しかしこの山は信州のような高い山ではなく、4〜5百bの丘陵と言った方が相応しい標高である。したがって
道路も湾曲はあるが高低差は少ない。松林、雑木林、竹林が混じって、所々小さな部落がある。猫の額ほどの
谷田と段々畑が少々ある程度である。これらの谷田は松平創生期の頃には、あったのでしょうか。
九久平から4キロ程走ると、いよいよ松平郷である。ここの奥まった所に石垣と濠のある神社がひっそりとある。
これが松平神社であり、松平氏の初代親氏の舅の郷主松平太郎左衛門信重の屋敷跡と伝えられている。初代親氏と
二代泰親までがここに住んでいたと言われている。
しかし、松平氏の軍事的本拠はここから南方600b先の「お城山」頂上にある山城、郷敷(郷式)城である。
標高200b程だが、約6アールの広さの本丸に加えて二の丸、三の丸もあり、東南北の三面が急斜面になっていて、
空濠も残っている。
応永年間に(1394〜1428)に、親氏が防衛の拠点として築城したと伝えられる。松平神社から少し登ると、
この松平氏の菩提寺「高月院」がある。この松平郷は地形上から見ると山間の僻地である事は否定できない。
ここから、家康に到って「天下取り」に向かって邁進した。初代松平親氏と二代泰親と協力して、毛呂、名之内、
麻生、大林、田口、秦梨、岩戸の\七名を征服した。距離は10q範囲以内の山間部落だった。領地を広げていって、
次の狙いは西の巴川周辺か、南下して乙川沿に下るか、どちらかである。
まだ微力な親氏は南下したが、大名にのし上がるには、どうしても確保しなければならない巴川河口の矢作川に
面した岩津(岡崎市)攻略が必要だった。この大前提に従って、岩津を攻め落とし、岩津から三河中原の要地の
安祥(安城市)城へ進んでいった。しかし、良いことばかりではなかった。
松平氏にも不幸が続く、まず7代清康が三河一国の平定に、あと一歩の所で享禄2年(1529)「守山崩れ」で
横死した。この横死を契機に松平氏は奈落の底までも突き落とされる。続いて、8代広忠も家臣によって殺され、
内部分裂して事実上の滅亡に直面する。
この時期に9代松平家の城主として竹千代(家康)が生まれた。自力だけでは解決できない所まで発展した戦いは、
結局、駿府に絶大な勢力を誇る今川義元を頼る事しか道は残されていなかった。この為、人質の生活が10年以上も
続く事になる
この先は
小豆坂の合戦
を参照して下さい。