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壮絶な最期のベスト5
1位
■ 鳥居強右衛門(とりい すねえもん)
鳥居強右衛門は徳川家康の配下の奥平貞昌の家臣である。天正3年(1575)4月5日、武田勝頼は1万5千の
軍勢を率いて、長篠城攻略に甲州から出て来た。この長篠城には徳川家康の配下の奥平信昌が5百人の兵力で籠城
したが、落城寸前に鳥居強右衛門は城を抜け出して、家康の居る岡崎城へ援軍の要請に来た。この時信長にも面会して
援軍を頼んだ。OKの返事を持って一足先に城へ戻る途中、武田軍に捕まった。「援軍は来ない」と云えば助ける
と云われたけど、鳥居強右衛門は「援軍は来る」と云ったので、味方が見ている前で磔の刑に処され、壮絶な最期を
遂げた。強右衛門の子孫は1500石の上級武士となって徳川家へ仕えた。
2位
■ 鬼庭良直(おにわ よしなお)・鬼庭左月とも云う
1585年の蘆名・佐竹・畠山氏の連合軍との間に起きた「人取橋の戦い」においてであるが、しかしながら
その戦いが彼の最期となる戦いであった。戦いは最初のうちは互角であったが、いかんせん敵連合軍は三万余の
大軍である。対する伊達軍は八千。これではよほどのことがない限り勝負にはならない。勇将伊達成実や片倉景綱の
奮戦でかろうじて戦況は一進一退であったが、やはり軍勢の差は大きくじりじりと追いつめられ、次第に苦戦の
様相を呈してきた。その時、殿(しんがり)を務めていた良直は、首級200余りを上げたが,
自分が敵をくい止める間に政宗を安全に
退却させようと、わずか百騎に満たない軍勢で玉砕覚悟の突撃を敢行したのである。時に良直七十三歳。
当時としては長生である。もう人生に何の未練もなかったのかもしれない。乱戦の中、この老将は奮闘した。しかし
全身に矢を射立てられ、深手浅手の刀槍傷を負い、ついに気力体力ともに尽き果てて討ち死にした。良直の奮戦に
より政宗は危ないところを脱し、安全な場所まで退却することが出来た。老将・良直が見事に咲かせた死に花で
あった。享年73歳であった。生き延びた政宗は、この後仙台六十二万石の太守となる。
3位
■ 鳥居元忠(とりい もとただ)
慶長5年(1600)7月19日に毛利輝元を総帥に推薦した西軍は、鳥居元忠の籠もる伏見城へ攻撃を掛けた。
その前日、宇喜多、小早川、島津、毛利、吉川らの西軍は鳥居元忠に伏見城の明け渡しを要求したが、始めから
死を覚悟の上の籠城だったので拒否した。早朝から壮絶な攻撃が始まった。しかし、この時点で江戸の家康は
まだ知らなかった。7月21日に会津討伐の為、江戸を発った。7月24日に伏見城が墜ちた事を知った。
みずから仕掛けた動揺作戦に石田三成がまんまと罠に填った。7月25日の会議の時、諸大名に石田三成の挙兵を
知らせた。
4位
■ 山県昌景(やまがた まさかげ)
長篠合戦時にも、信長との正面対決を回避するよう進言し続けた彼の言はついに採り上げられず、
両軍は激突した。結果は歴史が示すとおりであった。彼は死を覚悟し無謀を覚悟で馬防柵めがけて突撃していった。
一斉射撃が起こる度に彼の周りがバタバタと倒れていく。死力をふりしぼって軍配を振り上げた。
その時彼にとって最後の一斉射撃が起こった。頭に銃弾を受けた彼はどうと馬から転げ落ち、「赤備え」で敵を
震え上がらせた武田家の名将が戦場の露と消えた。
5位
島津豊久(しまづ とよひさ)
さらにやむなく西軍に属した関ヶ原では、千五百の兵が数十人にまで討ち減らされながらも、敵中突破して薩摩に
帰り着いている。この時に島津軍の用いた戦法は「捨てがまり」と呼ばれるものである。これはある一隊が
犠牲となって、部隊が全滅するまで敵をくい止め続け、そのすきに大将を安全な場所まで移動させるという、
島津家独特の壮絶な戦術である。この時は甥の豊久がその役を買って出た。豊久は井伊直政隊と大激戦を演じ、
なますのようにズタズタに斬られて死んだが、義弘は無事に薩摩へ逃れた。ちなみにこのときの傷がもとで、
井伊直政はほどなく死んでいる。島津軍のこの強さとしぶとさには、さすがの徳川軍も声がなかったという。
次点
■ 夏目吉信(なつめ よしのぶ)
本名は夏目次郎左衛門といい、出身地は幡豆郡豊坂村野場で吉信と称し、三方が原の敗戦の時、家康を
無事に帰城せしめたる後、 家康を名乗り従士25名と共に壮烈なる最期を遂げた。 家康はこの恩に
報いるために子の吉忠を韮山1万石に登用せんとしたが死没の為、果たせず。