
信長の鉄砲の師の橋本一巴は、元は蜂須賀党の出であり、盟主に背き信長に仕えた。蜂須賀小六の
命でねねの父、林弥七郎の弓に射られて果てた。他には坪内惣兵衛、前野長康、青山新七門、稲田大炊介、日比野六太夫、
日比野小八郎の七人が小六党の首七人衆であった。いずれも小折生駒家に寄食した浪人衆で、生駒家は代々「油と灰」を
商う馬借商人、その護衛に当たった蜂須賀党が天文の頃から鉄砲を所持したのは、生駒家が武器商人でもあったからでしょう。
戦国の動乱に乗して蜂須賀党は鉄砲と騎馬の名手揃いで信長はこの在野集団の諜報機能に着目した。永禄2年の正月、
岩倉城も落ち、信長は徳政を布いて民心もようやくおだやかな日々が訪れていた。が、三州(三河)表から帰ってきた蜂須賀小六、
前野長康が生駒家、前野家を通して駿府の今川の動きを伝えた。両名は再度、三州牛久保の地に潜入、今川上洛の確報を
入手して帰った。永禄3年3月31日の夜に、信長は小折村の生駒屋敷で小六、長康に逢って、今川義元の尾張侵入の危惧を
聞いた。
《されば、三州一円すでに治部少輔へ加担、松平党御敵に実相に候。国を挙げて合戦の用意余念なく、斯月を待たず
治部少輔の西上、違い間敷候。概に海道筋は、兵糧を所々に野積み、馬飼料うず高く、国ぎわ関々、厳重に取固め、
岡崎表へ今川衆多太く出張り、諸事申しつけ、荒々しく、府中(駿府)より掛川、浜松海道筋同然に候。この分にては
治部少輔、府中発向は、五、三日を経ずして尾張へ乱入は必定、日頃の御恩に報ゆるべく、我等川筋の者、糾合掻集め候わば、
その数二千は下る間敷、寸時を惜しむ刻に候。御用命あって然るべきと切々懇願候》
この時、信長は生駒屋敷で小六、長康達には奇襲戦法以外では勝てない事を話している。信長は「間合い」こそ肝要なりと
指示して情報戦担当者として簗田弥次右衛門・鬼九郎親子を現地へ送り込んでいる事も話した。そして境川沿いの鎌倉街道に
出て、今川軍の動静を逐一報告せよと命じた。今川軍の情報は旅人から清洲周辺の人達にも伝わって、西方へ逃れゆく者が
多数あると(森勘解由雄成の見聞)に書かれている。まだこの時点では、今川義元が何処から入り込むか解らなかった。
岡崎−沓掛までは解っていても、沓掛から古鳴海−裕福寺の道をとれば、北上して岩崎城を経て竜泉寺、守山城に通じる。
また、沓掛から大高、桶狭間を通って熱田へ入るか、諜報作戦の最大の関心事となった。蜂須賀・前野両党は野武士の
面目かけて半月にわたる諜報戦が境川に展開された。義元沓掛入城の報に、佐々党は善光寺道に出て平針村に居陣、
竜泉寺城は小坂孫九郎守備、岩崎城には丹羽源助・前野小兵衛・佐々平左衛門・前野新藏ら柏井衆2百を増援していた。
また、猪子石村に桜木甚助なども配置した。18日夜の情報分析では大高へ向かう可能性が高い事まで解った。沓掛より
大高までは15丁の道程。案の定、義元は大高へ向かうの第一報は梁田党の乱波の与曽平なる者が、今川の軍夫に雇われて、
敵陣中からの情報である。19日早朝、信長のお気に入りの馬、疾風に乗って主従6騎(岩室重休、長谷川好秀、佐脇藤八、
山口弘寄、加藤弥三郎)で熱田源太夫の宮に着いた時には、まだ200騎ほどしか居なかった。 祈願している間に
1000騎に膨れ上がった。
この時午前8時。蜂須賀小六は竜泉寺城の小坂孫九郎、平針の佐々成政軍に早馬で稲田大八郎が伝えた。佐々隊が笠寺観音脇の
鎌倉街道に出たのは予定より遅れ、町の者からすでに信長が善照寺砦へ向かったと聞き、一路、鳴海へ向かった。鳴海の激戦で
佐々隼人正、千秋四郎討死、三百騎の兵は八十騎に減った。蜂須賀小六は百姓姿で沓掛村長藤右衛門らと今川義元を待ち受けた。
これで、田楽狭間、桶狭間、田楽久保に来る可能性が大きくなった。信長の先陣、織田酒造丞信房、林佐渡守、毛利新介、
森三左衛門、遠山勘太郎、簗田出羽守政総らが、旗差物を隠し、早々幟、旗を巻いて、桶狭間の山の後へ廻った。この時、
間者が今川義元は田楽坪の釜ケ谷に陣を張り、合戦は今なりと告げた。この間者は簗田鬼九郎であった。
10時頃、鷲津の砦を攻めていた朝比奈泰能が占領した。 午後1時30分に、にわか雨が降り、日暮れよりも暗くなった。
午後2時、今、桶狭間の窪地で酒を飲みながら 昼食を食べている義元がすぐ下にいる。信長の陣刀、長谷部国重は高々と雨の
空へかざされた。 「めざすは義元の首ぞ、それ以外は討つな。」。一番槍は服部忠次であった。義元が2尺6寸の豪刀、
宗三左文字を抜くよりも忠次の槍の方が早かった。結局、首を取ったのは毛利新助であった。 あれ程の勢力を持っていた
義元も息を引き取った。
今川義元から見た桶狭間戦は
検証・桶狭間の合戦はここをクリック。